遠い親戚のおじさんのような気持ちで……

現在、音楽活動を中心にしつつ、バイト的に別の仕事をしている。詳しくは書かないが、この仕事をしていていいと思ったことは、今売れている物がよくわかることだ。

音楽をやってる人間としては、売れているCDで最新情報がつかめるといいのだが、残念ながら、今は配信が主流になっているので、CDはあまり売れていない。
初回盤とか、追悼・解散・引退のメモリアル盤などの特典付きしか、ほぼ見かけない。時代を感じるなぁ……。

そんな中、先日、本当に時代を感じるCDやDVDを手に取った。

意識は四半世紀前に飛んだ……。

その頃、僕は23歳で、シンセサイザープログラマーの会社にいた。
ハイエース満載の機材をレコーディング・スタジオに運び込んでずらりと並べ、打ち込み・音作りをするのがシンセサイザープログラマーの仕事だ。

当時、打ち込みもシンセの音作りも普通の人には敷居が高く(まず、高価で入手困難だったし、入手しても操作が難しかった)、専門職の仕事だった。

あくまで傾向の話だが、その頃第一線で活躍していた人の多くは、鍵盤を弾けないから打ち込みを始め、技術が高まって専門職になった……という感じなのだが、当時アシスタントを務める次の世代の僕などは、弾けるけど打ち込みもする、という人が多くなってきた。
やがて(と言うか、もうすでにその頃)、DTMというものが普及し、誰でも手軽にできるようになり、専門職は徐々に仕事が減っていくのだが、そのちょっと手前の、円熟期・最盛期であった。

その後、アレンジャーもアーティストも自分で打ち込み・音作りをするようになり、今では自宅で作り込んだファイルをUSBメモリー等に入れ、ポケットに突っ込んでスタジオに来て、備え付けのパソコンに差せば済んでしまう。
それどころか、ファイルをクラウドにアップしておけば、何も持ってくる必要はない。(と言っても、実際の今の現場には行ったことはないので、推測で言っているのだが)


四半世紀で、ものすごく時代は変わったと思う。

まあそれはさておき、当時の話。

聞いたことのない、……いや、どっかで最近聞いたようなグループの仕事が入り、世田谷のスタジオに行った。
いつものように昼頃に行って1時間掛けて機材をセッティング。

大抵アレンジャーは自宅で朝から大慌てでリズム隊など基本パートの楽譜を書き、スタート時間までにスタジオにファックスで送ってくる。

別にアレンジャーは切羽詰まらないと仕事をしない、というわけではない。売れっ子のアレンジャーは、前の晩遅くまで(場合によっては、明け方まで)別の曲のレコーディングをしていたりするので、その日の仕事は例えば朝10時に起きて、スタートの13時(大抵の仕事は、その時間がスタートだった)までに大急ぎで楽譜を書かなければならない、というやむにやまれぬ事情なのだ。

プログラマーは13時から楽譜通りに打ち込む。

アシスタントである僕は、楽器運び・セッティングをし、メインのプログラマーの補佐をしながらお勉強するというわけだ。
使い方を憶えたシンセやサンプラーで音選び・音作りしたり、逆にプログラマーが音作りしている間に打ち込みを任されたり、あとは「このパート弾いて」と楽譜を渡されたりすることもあった。

1時間ほど経って打ち込み終わる頃に、アレンジャーが到着。

このアレンジャーさん、この曲の作曲もしたのだが、「珍しく作詞できちゃったよ!」なんて照れながらはしゃいでいた。(笑)

小森田実さんという、当時すでに中堅の作曲・編曲家さんだ。「コモリタミノル」表記の作品も多い。

松田聖子の曲も手掛けていたと言えば、どれくらいの中堅どころかおわかりになるだろう。

のち、SMAPの「SHAKE」「ダイナマイト」「らいおんハート」と大ヒットを飛ばすことになる。

 

作曲が主だが、編曲をセットで請け負うこともある。作詞は「気が乗ったら書くけど、まず書けない」と言っていた。だからこの日の曲は、当時としては珍しい作詞・作曲・編曲全て一人でこなした作品である。(のち、作詞は多くなってくる)

 

鍵盤を弾けるアレンジャーなら、残りの上物(うわもの)パートを鍵盤で次々と弾いて、パソコンに取り込んでいく……というのが、よくある段取りだ。小森田さんも弾けるので、この段取りとなる。(スタジオに来ても楽譜を書き続けるアレンジャーもいた)
録音せずにパソコンに取り込むのは、後でじっくりと音作りをするためだ。

こうして、夕方までにはおおむねオケの形が出来上がる。

その日は、アーティストが来て、仮歌を録音するという。
アイドルの場合、本人が来ることはあまりなく、仮歌専門の歌手が来ることが多かったのだが。

仮歌は、キーやテンポが問題ないか、実際に歌ってチェックする目的の他に、アレンジをさらに練るために歌が入っていた方がイメージしやすいからでもある。
今回のように歌とダンスのグループの場合は、どの部分を全員で歌い誰がどこでソロパートを取るか、を決めるためでもある。つまり、今回の仮歌録りは長引きそうだった。

さて、入ってきたのは、5人の女の子達だったが、23歳の僕から見たら、普通のお子ちゃま……。(^^;
見たところ、みんな中学生だが、1人だけ小学生のようだった。
しかし、これは間違いで、実際には二十歳1人(!)と高校生3人と中学生1人だった。(^^;

 

そのグループの名前は、「SUPER MONKEY'S」(すごいサル……って、一体……? と思っていたが、よく見ると「'S」だったのか……なおさら意味不明だが(笑))


と、彼女達を見て、思い出した!
ちょっと前にたまたまテレビで見たのだが、当時大ブレークしていた女の子4人の SPEED の後輩で、やはり歌とダンスを売りにしていて、地元沖縄ではすでに SPEED よりも人気が高い、と言われている5人組が、共同生活をしながらデビューに向けてレッスンに励んでいる、という密着取材番組であった。
特に興味はなかったのだが、休みの日にテレビを点けたらやっていて、何気なく観ていたのだった。
ああ、あれか! しかし、こんな可愛い女の子たちなのに、何て可哀想なグループ名だろう……と思ったものだった。

 

そうか、じゃあ今日は念願のデビュー曲のレコーディングってわけか、何ともおめでたいことではないか!
そんな現場に立ち会えて、おじさん嬉しいよ。(笑)……なんて、親戚のおじさんのような気持ちに。最年長で3歳違い、最年少で10歳違いなのだから、いとこでもよかろう💦 しかし、もっと離れているような気がしたのだ。

(ちなみに、23歳で「おじさん」気分になったくせに、25歳の時に近所の子供に「おじさん、おじさん家の2階のベランダにボールが入っちゃった」と言われ、即座に「『お兄さん』と呼びなさい」と言っていた。(笑))

 

何と普通でお子ちゃまなんだろう……と思って見ていたが、一人だけ……中学生のその子だけ、何か違う感じがした。

 

……オーラだろう。ものすごいオーラが出ている。いや、「カリスマ性がある」と言っても大袈裟ではなかった。……と言っても、態度がでかいということは全くなかった。


想像してみて欲しい。23歳の大の男(?)が、10歳年下の女子中学生を見て、カリスマ性を感じて恐れおののくところを!……いや、おののいてはいないが(笑)、そんな女子中学生、いるだろうか? いや、まずそうそういるまい!何て子だ! この子が二十歳ぐらいになったら、大物になっているに違いない! と思えるほどだった。

 

そのカリスマっ娘こそ、のちの安室奈美恵だった。(いや、当時も安室奈美恵だが(笑))

 

そんな僕の気持ちとは関係なく(笑)、流しているオケを聴きながら彼女たちは口ずさみ、ちょっとダンスしてみたりしていたのだが、まだ本気モードではないので、お遊び程度にしか見えなかった。(笑)

 

やがて準備オーケー、仮歌を録ることになり、プログラマーはいなくてもパソコンはテープ(これも今は廃れたなぁ……)に同期して演奏するのだが、不具合が起きた時に対応できるよう、スタジオに残った。

 

アシスタントの僕は、問題なさそうなので、(しかも特に興味もなかったので)退席し、スタジオの離れのような建物の2階にある事務所に上がって行った。

 

普段はそんなことはしない(できない)のだが、このスタジオには専門学校時代のひとつ上の先輩が就職していて、この日、「あれ? ここにいたんだ!?」と思わぬ再会に驚いていたので、旧交を温めに行ったのだ。

 

先輩と言っても、僕はミュージシャン科で、彼女はスタジオミキシング科。
放課後、学校の地下にあるレコーディングスタジオにスタジオミキシング科2人とミュージシャン科3人でつるんで、毎日のように自主的に課外実習を行っていたのである。(と言っても、半分は遊んだりお喋りしていたのだが(笑))

 

スタジオミキシング科の生徒としては、実際にミュージシャンの演奏をレコーディング・ミキシングでき、ミュージシャン科の僕らとしては、レコーディング現場の勉強になる。しかも、正式な授業ではないから、本来ならいじれないスタジオ機材(ミキサー卓やエフェクター)も、いじり放題だった。
この時の経験が、今に活きている。

 

話はすでにそれているが、思い出したついでにさらにそれると、この時の面白いエピソードがある。

 

スタジオミキシングの講師の方が、ある日、僕らが地下スタジオでだべっていると、沢山のテープを抱えて入ってきた。
「(所属する)スタジオで古いテープを処分するというので、もらってきた。何か音が入ってるけど、消して勝手に使っていいよ」
と言って、テーブルにボンと置いて行った。
そこでテープを片っ端から聴いてみると、懐かしいCMソングのオンパレードだった。(一部は当時も、現在も使われている)
子供の頃によく聴いた、あのCMソングのマルチ(ミックス前の、各パートが8つのトラックに個別に録音されたままの、1/2インチのテープ)がここに! ……と感激し、「消すのもったいない!」と言っていたが、その後どうなったことか……?

 

CMの最後にちょろっと流れる商品名や企業名だけの短いジングルもふんだんにあったが、CM全体で掛かるものではサッポロ一番味噌(塩?)ラーメン、ネスカフェゴールドブレンドの「ダバダ~」、「キャラメルコーン、オ・ホホホホ~」、丸大ハムの「ハイリハイリフレハイリホー(でいいのか?)」、日本船舶振興会の「戸締まり用心、火の用心」、富士サファリパークの「ほんとにほんとにほんとにほんとにライオンだ」、子門真人が歌う「サンサン栄光のサンサン鐘が鳴る 松戸競輪」、そして何と野坂昭如が歌うサントリーオールド900の「ソ、ソ、ソクラテスプラトンか」もあった。
企業ジングルとしては、「ロート、ロートロート…ロート製薬」、「スジャータスジャータ、白い色のスジャータ」、「明るいナショナル」、「二人合わせてヤンマーだ」、そして日立のあの「この木何の木気になる木」の初代(?)バージョンもあったと思うが、思い出す勢いで意図せず記憶を捏造してしまっている恐れもあるので、話半分で読んでいただきたい。(笑)

 

一番すごいと思ったのは、「ほら、チェルシー、もひとつチェルシー」だ。何と、歌と演奏はあのオフコースなのだ!
しかも、記憶によると、実際にCMで使われなかった別テイクもあった!
こんなレアなテープ、学生の実習のために消されてしまったのだろうか……? そんなことをファンが聞いたら、大泣きするか大激怒するに違いない。(^^;


さて、いつもつるんでいたスタジオミキシング科の人は、一人は男で一人は女だったが、その女性の方は、みんなの前で「鈴木大地が好き」と言ってしまったばっかりに、「バサロ」という、日本人の女の子としては聴感上可愛くないあだ名で呼ばれ続けるようになってしまっていて、可哀想だった。(笑)

その可哀想なバサロさん(笑)と、思わぬ再会にとなり、事務系の人たちは皆帰った夜の事務所で談笑。
「スタジオで働いてるのはいいけど、何で現場にいないの?」
「事務員だから。スケジュール管理をしてるの」
「せっかく学校で勉強したのに、もったいないよ。現場に入ればいいのに」
「そうねぇ、そのうちできればとは思ってるけど……時々見学したり、空き時間にちょっといたずらしてる(笑)」
「で、事務員なのにみんなと一緒に帰れないの?」
「スタジオの作業が終わるまで、事務所のお留守番なの。軽く掃除して、戸締まりして帰ってるの」
「それは大変だね~」
などなど、あとは誰がその後どこに行ってるとかいう話で盛り上がり……。

ひとしきり話をしてスタジオに戻ると、ちょうど仮歌録りが終わって、グループがブースから出てきたところだった。
本気を出して歌っているところをちょっと見たかったのだが、長話しすぎた。後から考えてみると、これはもったいないことだった。 

彼女たちは、ほとんどが未成年者なので、20時以降は仕事できないため帰って行ったが、「お疲れ様でした」と見送りながら、ふと思った。

「彼女達は、SPEEDの成功に続こうとする、二匹目のドジョウであるが、はたして売れるだろうか……」

かつて、「キャンディーズの妹分」としてデビューした「トライアングル」というグループがあったが、デビュー曲は売れたがその後パッとせず(2枚目以降、オリコン30位以内に入った曲はなかった)、3年後に解散してしまった。
そして3人のうち1人は、脱いでしまったのだ。
このグループも同じ道を辿ってしまうのではないか、と懸念してしまったのだ。

一度スタジオで顔を合わせただけで、彼女達は僕のことなど「スタジオに何人かいた、何してるかよくわからない人の内の一人」にすぎず、憶えてなどいないに違いないが、僕からすれば、事前にテレビで頑張ってる姿を見、スタジオで顔を合わせたので、「珍しく親戚一同集まった時に、一度だけ会った姪っ子達」のような感情が湧いていたのだ。
(しかし向こうにしてみれば、「物心付くか付かないかの時に、有力な人の葬式に滅多にない規模で集まった親戚一同の中の、叔母の旦那の弟……よくよく考えてみると、血縁関係は全くないおじさん」ぐらいのものだろう(笑))

果たして、デビュー曲はオリコン29位と、まずまずの売れ行き。

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テレビ出演が多く、順調に思えたが、その後の曲は30位以内に入らず……。
(芸能に疎く、ファンになったわけではないので詳しくはなかったが、今調べた(笑))

ああ、やっぱり一発屋に終わるのか……と思った。
知らないうちにメンバーが入れ替わったようだが、僕は気付かなかった。(笑)
いつの間にか名前も変えて、「安室奈美恵 with SUPER MONKEY'S」と、あのカリスマっ娘の名前を前面に出した。
そうそう、そうだろう。その方が売れる。って言うか、そもそもソロで良くなかったか?
……と思ったが、幼かったのでソロデビューには不安があったのかもしれない。
別にデビューさせたいお姉さんグループは、ちょっとメンバーがキャラ的に弱いので、安室奈美恵を中心にする形で一緒にデビューさせたのだろうか?……というのは、あくまで推測であるが。

名前を変えて2曲目の「TRY ME 〜私を信じて〜」は流行のユーロビート路線に転じたおかげで、8位というヒット!

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「やっとトップ10に入ったね、良かったね! これで一発屋ではなくなったね! おめでとう!」と、おじさん(笑)は陰ながら喜んだものだった。

ちなみにそのおじさんは、そのデビュー(1992年9月)の後、一人で仕事を取れるようになっていた(確か10月か11月頃、初仕事をもらった……僕は先輩方と違い、コンパクトなセットを自前で揃え、乗用車のトランクと後部座席に収まり、一人で運べるようにしていた。鍵盤は一台だけ、あとの音源は全てラックマウントだ。まさに、次世代プログラマーだった!)が、年が明ける頃には会社全体として仕事が激減。社長はミキシング・エンジニアとして活路を見い出し、僕はしばしばアシスタントとして会社のプライベート・スタジオにこもる日々も多くなったが……。(この時の経験は、本当に貴重だった。ミキシングの基礎から応用まで、教わったり自力で見い出したりして、今日の活動に活かせているのだ)

春先のある日、会長から呼び出され、
「正社員は雇えなくなった。契約社員として続けるなら、仕事があった分の給料しか出せなくなるが、どうする?」
と言われ、生来の引っ込み思案と自信の無さから、退職して実家の文房具店を手伝いながら、音楽は趣味でやっていき、時機を見てアーティストとして自分の実力で再業界入りすることにした。

自信ない割には、自信満々だ……。(笑) これは、他人の要望に応えられる自信がなかっただけで、自分がやりたいことには自信があった、ということだ。

とはいえ、その当時の音楽シーンは、自分がやりたいこととあまりにかけ離れた状況で、今無理して出てもつぶれてしまうと思ったのだ。それに、スタッフサイドからアーティストに登るのは業界の仕組みからして、不可能に思えた。
(今考えると、何が何でもしがみついて残っていれば良かった……文房具店の仕事をしながら、音楽の仕事が入った日はやれば良かったのではないか……まあ、この辺の話は「僕の音楽ルーツ(その37)」あたりで書くことになろう(笑))

そんなわけで、そのおじさんは文房具を配達する車の中でラジオを聴いたりして、そういう芸能関係の情報を得ようとするでもなく得ていたのだが、やがて驚きのニュースが入る。

 


「えっ、売れたのに、どうして!?」

率直な感想だった。オリコン8位、デビュー以来5枚目にして初のトップ10入り。グループはこれから躍進していくと思っていたのに、まさかの解散!?
なぜここで!?

僕は知らなかったが、すでに安室奈美恵はソロで活動していたし(単独でテレビに出ているのを見たことはあった)、他のメンバーは別グループとして活動していて、それぞれ人気を得ていたのだ。
(恥ずかしながら、僕は「別グループ」の名前を知らなかった。……と言うか、「別グループ」自体は知っていたのだが、それがこれであると結び付いていなかった(笑))

やはり、最初からこうする予定だったのだろうか?
様子見のため、一緒のグループでデビューさせたが、ある程度人気を得たらバラす予定だったのか……?

しかし、安室ちゃんはいいが、その他のメンバーは大丈夫だろうか?
おじさん(笑)は、芸能情報に疎いから、「別グループ」がどれほど人気があるのかわからなかったので、彼女達は売れずに郷里に戻ってしまうことにならないだろうか……(実際、そういう危機はあったようだ)、それならまだいいが、芸能界に残りたいあまりに……!?

……などと、僕が気をもんでもどうにもならないのだが、(笑) とにかく解散、安室ちゃんは売れに売れたが、「別グループ」がどうなったのか、知らなかった。(笑)

ようやく、僕が「別グループ」がヒットを連発していたMAXであることを知ったのは、2002~2004年のあたり(おじさん気分でいるくせに、疎すぎるだろ……(笑))、この頃、主力メンバーの脱退、代わりに新メンバーを迎えた頃だと思うが、彼女達は行き詰まりを感じ、日本での活動を1年間(……と、番組では言っていたと思う)停止して、アメリカへダンス留学することになった、という密着取材番組をこれまた、たまたま観た時だ。

 

Super Monkey's としてデビューする前の共同生活を回想する場面があり、ようやく知った。(^^;

 

「ああ、MAXはあの時のお子ちゃま達だったのか! ちゃんと売れてたんだね、こんなに大人になって、セクシーになって! おじさん嬉しいよ」
と、感慨深く観ていたものだ。(笑) ま、前述の通り、メンバーの入れ替わりがあり、この時点のメンバーであの日スタジオで会ったのは4人中1人だけだが。(それすら知らなかった……4人中3人はそのままだと思って観ていた)(^^;


安室ちゃんはその後、ユーロビートからブラックミュージックに路線を変えた。
その第一作「Say the word」をラジオで聴いた時、「これだ! 安室ちゃんの魅力を発揮できるのは!」
と思った。

何枚目かで、「ジャネット・ジャクソンみたいだ! カッコいい!」 としびれた曲があった。ソロ28枚目となる、「GIRL TALK」だ。(オリコン2位)

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今調べてわかったのだが、安室ちゃんはデビュー前からジャネット・ジャクソンに憧れ、その路線を希望していたらしいのだ。中学生の時にすでに! である。その事実だけでも、すごいことだ!
やっと自分が本当にやりたいことができ、水を得た魚のようだった(その事を知らなくても、それがわかるほどだった)。

その頃までにはすでに安室ちゃんは若い女性のカリスマ的存在になっており、彼女に追従するファッションの女性を「アムラー」と呼ぶ言葉は広まっていたが、本当にカリスマ性を発揮したのは、この曲からだったと思う。

そして、これからも、安室奈美恵は日本の女性をリードし続けると思った。おそらく、誰もが。

 

それなのに……。 

 


安室奈美恵、引退」


え、まさか? 嘘でしょ?

昨年、突然の引退予告。

40歳、まだまだ、これからじゃないか!


みのもんたは、言った。(笑)

「女性は50代・60代から!」


それなのに、40で!?

何故!? 何か、公表できない出来事があったのか?……と疑ってしまうほど!

誰もが、愕然としたであろう。

しかし、安室奈美恵は、デビュー当初から、つまり、僕が会ったあの中学生のお子ちゃまの時から、「芸能活動は40歳まで」と決めていたのだという。

何という人生設計! そして、何という潔さ!

「お子ちゃま」にしか見えなかったあの時すでに、全てを決めていて、その通りに歩み、その通りに幕を降ろしたのだ。

10歳も下なのに、何と考え方が大人だったのだろう。


今、こうして仕事中に彼女のCDやDVDを手に取り、感慨深く思った。
そして、心の中でそっと、遠い親戚のおじさんの心境で、DVDジャケットの写真に声を掛けた。「四半世紀の間、よく頑張ったね、お疲れ様……これからも、自分の思い通りに生きていくんだね。どうか、幸せにね!」

 

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