僕の音楽ルーツ(その5)

前回はこちら。

 

あるどんよりとした日、学校から帰ると、母は用事があると言って出掛けて行った。

父は仕事に行っていて、僕一人だけになった。

 

電話が鳴った。

担任の先生からだった。

 

「Y君が亡くなった」

 

耳を疑った。

 

あんなに元気だったのに。

 

「退院したら、また遊ぼうね」

 

そう言っていたのに。

 

なぜ、一体なぜ!?

 

手術で失敗したのか? ……そうとしか思えなかった。

 

先生は、すぐに学校に来るように言った。

一番仲の良かった僕に、葬式で弔辞を読んで欲しい、ということだった。

母の帰りを待ち、事情を伝え、筆記用具を持って学校へ行った。

 

「Y君は気の毒なことになった……。明日の葬式で、君に弔辞を読んでもらいたい。Y君との思い出を書いて欲しい」

原稿用紙を手渡され、誰もいない教室で書いた。作文は苦手なのでなかなか書けなかったが、一度書き始めると思い出が次々とよみがえってくる。

ある程度書いては先生に見せ、直されたり順番を変えるように言われたりして、何度も書き直した。

 

「遺影や棺に入ったY君の姿を見てどう思うか、想像して書いてみて」

とも言われた。

そんなの、書けるわけがない。想像なんて、できない。いや、想像したくない。

結局そこは先生の言う通りに書いた気がする。

 

2枚以上、と言われたのだが、結局4枚半になった。

 

すっかり、暗くなっていた。家に帰ったのは、夜8時ぐらいだったろうか。

母は通夜に行ったと言った。そこで病名を聞いた。

 

白血病……「血液のがん」と言われる病気であった。

年に10万人あたりおよそ7人(2005年、日本)という、まれな病気だ。まさか、と思っていた、そのまさかだった。

当時、子供が白血病になり、闘病と懸命な治療の甲斐なく亡くなってしまうという再現ドラマが、頻繁に放送されていた。あれはテレビの中だけの話ではなく、現実だっんだ、と思い知らされた。

 

Wikipedia で調べてみると、1980年代以降、化学療法や、末梢血造血幹細胞移植、臍帯血移植の進歩に伴って治療成績は改善されつつある、ということだが、この時は1978年。もう少し後だったら、助かっていたかもしれない……。

 

翌日、クラス全員で、Y君の自宅に葬式に行った。

 

「本当に、死んだんだ……」

 

そう思った。

嘘であって欲しいと思っていたのに……。

無邪気に笑う遺影と、動かなくなったY君の姿を見て、ようやく実感した。

それは、先生に言われて書いた通りだった。

 

「一緒に遊ぼうって言ってたのに、もう遊べなくなっちゃったね」

彼の安らかな寝顔のようなその顔を見て、そう呟いた。

「生まれ変わってきたら、また一緒に遊ぼうね」

 

弔辞を読む時間になった。

ここまで泣かなかったのに、弔辞を半ばほどまで読んでいたら、涙が出てきた。

あちこちからすすり泣く音が聞こえる。

最後まで読んで、もう下を向いた顔を上げられなくなった。

 

そして、出棺。

クラスみんなで行くわけにはいかないので、ここで見送ることになった。

 

僕だけでも、行けないの?

 

そう思い、先生に言ったが、それは叶わなかった。

 

棺が霊柩車に乗せられた。

黒塗りだが普通のライトバンだったのが、何だか悔しかった。立派な車で送って欲しいと思った。

 

その車は、ゆっくりと走り出し、すぐ先の角を曲がって見えなくなった。もっと遠く、小さくなって、涙が溢れる目でぼんやり霞んで見えなくなるまで見送れなかったのが残念だった。

 

「さあ、戻ろう」

先生の言葉に、ふと我に帰った。

 

数日後……。

 

多分、初七日の翌日だったと思う。僕はY君のご両親に呼ばれて家に行った。

 

Y君の部屋で、ご両親と対面した。

お父様とは、葬式の日に会ったが、ちゃんと対面したのは初めてだった。

 

まず、Y君が白血病であったことを告げ、そしてそれを隠していたことを謝ってくれた。

本人にも告知していなかったという。

当時は、不治の病は告知しないのが当たり前だった。

だから、それはわかるのだが……。

こうなるとわかっていたら、もっと見舞いに行ったのに……。もっと音楽の話をして、病院でできる遊びをして……。

 

Y君本人も、こうなるとわかっていたら、何かしておきたいことがあったのではないか? ……そんなことも考えてしまった。

 

そして、一冊の本を手渡された。

「これ、Yが一番好きだった曲です」

 

チャイコフスキー交響曲第6番《悲愴》

 

と、表紙に書かれていた。

 

音楽之友社ポケットスコア。オーケストラの総譜の縮小版だ。

 

「Yが、一番好きな曲でした」

 

意外だった。彼が一番好きな曲は、ベートーベンの運命だと思っていた。

僕に話を合わせていてくれたんだ。

僕もこの曲の第一楽章が入ったレコードを持っていたが、暗いのと、第一楽章だけで長すぎるので、あまり聴いていなかった。

途中、美しいメロディがあり、そこは好きだったが……。

 

開いてみた。

楽譜のところどころに「序奏部」「主部」「展開部」など、鉛筆で書き込みがある。

作曲の真似事をしてはいるが、僕にはよくわかっていない言葉だった。

Y君はちゃんと勉強していたのか……。

 

「その楽譜を、Yだと思って、大事にしてください。使い途はないかもしれないけど、仕舞い込まないで、いつでも見えるところに置いておいてください。そして、Yのことを思い出してください」

 

「わかりました」

 

いくら音楽が好きでも、音大に行ける見込みがない人間が、オーケストラのスコアを持っていても使うとは思えなかったが、ご両親の言葉通りにすることにした。

実は、後々になってこれが役に立つ時が来るのである。

 

ご両親は、最後に、

「Yと遊んでくれてありがとう。いつも楽しく話してました」

そして、玄関から送りながら、

「Yの分も、生きてくださいね」

と声を掛けてくれた。

 

この一言は、僕にとって今までの人生の中で一番大きな言葉だ。

どんなにつらいことがあっても、今まで生きて来られたのはこの一言のお陰だ。

 

Y君の分も生きて、音楽をやろうと思ったのだ。

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